奄美島唄 朝崎郁恵さん 2


2010年5月25日
吉祥寺CLUB SEATAで行われた
朝崎郁恵さんがご出演されるということで行ってきました。

今回はNHKドラマ「篤姫」の音楽を担当された
吉俣良さん とコラボレーション!
ライブ前にお二人にお話をうかがいました。

(吉俣良さん・朝崎郁恵さん・私)

吉俣さんがホテルで「篤姫」の作曲をしていて煮詰まったとき、
朝崎郁恵さんのCDに出会い、唄声を聞いた瞬間涙があふれ出たんだそう。
そのとき湧き上がるように産まれた曲が「篤姫」のなかでも印象的だった
吉俣さんのお祖母ちゃまにむけて書いた「良し」という作品。

「良し」UAが歌詞をつけ「阿母(あんま)」が誕生した。
阿母(あんま)とは奄美でお母さんやお祖母さんを親しみこめて言う言葉。
波の音だけにのせて朝崎さんが唄っているシマクチバージョンもあるんだそう。

楽譜のない島唄と西洋楽器のピアノが共演することについて
「私と一緒に演奏する人は大変だと思う。」
とひかえめにおっしゃる朝崎さんに対し、
「朝崎さんは”歌いたいように歌う”ってことが
人に対しものすごく説得力がある。
神様に唄わされているような・・・。
”唄をうたうってこういうことなんだ”と
体現してくれた、再認識させられたのが朝崎さんの唄。」
と、吉俣さん。


リハーサルすることも楽しいと感じるほど
朝崎さんの唄の心からファンだとおっしゃってました。
そして、傍にいて、演奏を聴いてそれがとても伝わりました。

お二人のおっしゃるようにまるで”おばあちゃまと孫”をみているかのような
気のあったお二人の演奏は、まるで語りかけに応えるようであたたかったです。


実は「阿母」は受け入れ難い真実をゆっくり受け入れ、
ご冥福を祈る想いが渦巻く余韻のなか唄われました。

耳を疑うような知られざる歴史の真実。
想像できないほどの悲しみがそこに。

三味線もピアノもなく独唱で伝えられた
その唄とは



「嘉義丸(カギマル)のうた」
 
太平洋戦争中1943年5月26日。
大阪から那覇に向かう貨客船「嘉義丸」が米軍の魚雷攻撃にあい海に沈没。
幼児から老人まで321人、船員20人がその犠牲となった。
  
当時鍼灸師で三味線の名手だった朝崎さんの父、辰恕さんが、
治療に通っていた生存者福田マシさんと出会い、
この胸をえぐるような悲しい体験に胸を痛め、歌にされた。
この鎮魂歌「嘉義丸のうた」は奄美で広まったものの
戦中、戦後とも戦局の不利を伝えるとして当局から唄うことを禁じ、
戦後も統治国米国への配慮から禁じられた。
そして、遺族は嘆き悲しむことさえひかえめにしなければならなかった。

この事実が語られたあと、唄がはじまった。

そこには平穏だった船旅が一気に地獄化し、
爆撃にあった船のなかで逃げまどう人たち、
子を探す親、親を探す子の姿、
海に放たれ藁をも縋る想いで我が子と思って抱き上げた流木で
命が絶える瞬間まで子を想う親のすさまじいほどの痛みがあった。

67年たった翌日5月26日は嘉義丸が沈没した慰霊の日。

唄うことが禁止されながらもこの唄の存在は
どれだけ多くの人の心に寄り添い励ましてきたんだろう。
島唄の本質を目の当たりにしたような気持ちだった。

この唄は本土の言葉で唄われている。
島唄は基本的に奄美の方言で唄われるが、
きっと多くの人にこの事実が、痛みが届き、
平和への想いが繋がっていくようにという
辰恕さんの想いが込めれているんだろう。

その願いは娘、朝崎郁恵さんによって
歌い継がれ、今も遺族の心を癒している。